横浜DeNAベイスターズ・親会社のドタバタ劇から生まれ変わった球団

横浜DeNAベイスターズはセ・パ両リーグが分立した1955年に誕生した大洋ホエールズを前身とした球団。

リーグ優勝回数は2005年に誕生した楽天を除けば最も少ない2回ですが、日本シリーズ優勝2回は中日と並び、阪神を上回っているのです。

現在の横浜DeNAベイスターズになるまで、親会社との関係によってチーム低迷など、様々なドタバタ劇がありました。その歴史をご紹介します。

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横浜DeNAベイスターズ

会社名:株式会社横浜DeNAベイスターズ

創設:1949年11月22日(70年前)

所属リーグ:セントラル・リーグ

本拠地:横浜スタジアム(神奈川県横浜市中区)

神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としています。

また、二軍の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアム。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられているます。

横浜DeNAベイスターズ・歴代チーム名

大洋ホエールズ(1950年 – 1952年)

松竹ロビンスと対等合併

大洋松竹ロビンス(1953年)

洋松ロビンス(1954年)

大洋ホエールズ(1955年 – 1977年)

横浜大洋ホエールズ(1978年 – 1992年)

横浜ベイスターズ(1993年 – 2011年)

横浜DeNAベイスターズ(2012年 – 現在)

横浜DeNAベイスターズ・獲得タイトル

日本一(2回):1960・1998年

リーグ優勝(2回):1960・1998年

横浜DeNAベイスターズ・球団マスコット

DB.スターマン(2012年~)

・横浜生まれ、横浜育ち。

・趣味は「ボール集め」「食っちゃ寝」。

・好きな物は「丸いもの」「美味しいもの」「モバゲー」。

DB.キララ(2013年~)

・横浜生まれ、横浜育ち。

・dianaに憧れ、ダンスを一生懸命練習。

・趣味は「キラキラしたもの集め」。

・好きな物は「キラキラしたもの」「ポップコーン(キラキラ弾けるから)」。

横浜DeNAベイスターズ・球団の歴史

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▷大洋ホエールズ時代

リーグ分立時に新規参入した大洋、国鉄スワローズ、広島カープの3球団。

読売ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズは日本プロ野球の創成期に誕生して長い伝統と歴史を持ちます。

2リーグ分立後も人気・実力ともに高い球団とは相反して低迷の時期が続きました。

いち早くリーグ優勝を果たしたのが1960年。

53年に松竹を吸収合併して以降は大洋松竹、洋松と略称で呼ばれ、60年に松竹が撤退して大洋53年に松竹を吸収合併して以降は大洋松竹、洋松と略称で呼ばれた。

60年に松竹が撤退して大洋に戻りました。

▷三原脩監督の就任

そして54年から59年までの6年間、大洋ホエールズは最下位に甘んじていたのです。

そして59年に、西鉄ライオンズを率いてパ・リーグ3連覇と同時に、巨人との日本シリーズでも3連覇を果たした三原脩を監督として招聘します。

三原監督はエース・秋山を中心に、新人の近藤昭仁を二塁手として起用するなど、三原マジックと呼ばれる采配を振るい、優勝を果たします。

前年最下位の球団が優勝したのは、なんと史上初!

初進出した日本シリーズでも、毎日大映(大毎)オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に対して、これまたマジックのように全て1点差勝ちの4連勝で日本一を獲得するのです。

ところが、翌61年には再び最下位に転落します。まさにジェットコースターのような優勝劇に…。

▷横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに

そしてその後、川崎から新設された横浜スタジアムに本拠地を移し、1978年に横浜大洋ホエールズとなります。

さらに、親会社の大洋漁業が社名をマルハに改称したことに伴い、1993年にはチーム名も横浜ベイスターズに。

▷二度目の日本一・権藤博監督時代

そして、1998年にバッテリーチーフコーチだった権藤博が監督に昇格。就任直後のミーティングで、「みなさんはプロですから、プロらしくやってください」と一言だけ告げると、以降は全体ミーティングを行わず、練習や体調管理などもすべて選手の自主性に任せる「奔放野球」を貫きます。

守護神の佐々木主浩を中心に三浦大輔、斎藤隆、野村弘樹らの投手陣と、一度打ち出したら止まらない「マシンガン打線」と呼ばれた石井琢朗、波留敏夫、鈴木尚典、駒田徳広、谷繁元信、佐伯貴弘、ローズなどが打ちまくり、二度目の優勝を果たすのです。

さらに日本シリーズでもパ・リーグ2連覇の西武ライオンズを降し、二度目の日本一に輝きます。

▷最下位に転落・森祇晶監督時代

その後は2年連続で3位となると、球団は権藤の後任にチーム再建の切り札として西武の黄金時代を築いた森祇晶を監督に招聘します。

ところが、森の目指す管理野球は、権藤の奔放野球とは全く対照をなすものでした。3年連続の3位となったものの、監督と選手間に確執が生じ、優勝を知る選手がFAやトレードによってチームを離れ、2002年には、シーズン終了を待たず森監督が休養、契約を1年残して辞任しました。

そして、チームは最下位に転落しました。優勝からわずか4年後のことです。

▷低迷するチームと球団親会社との関係

球団の低迷は続き、02年から11年までの10年間で、実に8回の最下位を経験します。この間、何度もの監督交替劇がありましたが、チームは上昇しませんでした。チーム低迷の要因には、親会社との関係があります。

02年、親会社のマルハが球団経営から撤退し、第2位の株主であるニッポン放送へ譲渡されることになりました。

ところが、東京ヤクルトスワローズの親会社が産経だった時代から、ニッポン放送が含まれるフジ・サンケイグループはヤクルトの株主でもあったのです。

同一企業グループが複数球団の親会社になることは野球協約に抵触するということで、第3位の株主であったTBS(東京放送)に譲渡されることで決着しました。

こうした親会社のドタバタ劇はさらに続き、大学生への裏金契約問題も明るみにでて、選手の心理状態にも影響することになります。

さらには親会社の派遣した役員であるフロントと選手間にも軋轢が生まれました。

1998年の優勝時に中心となって活躍した選手の多くが球団を去りました。

▷現在の横浜DeNAベイスターズへ

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そんな中、12年にIT企業のDeNAが球団経営に乗り出し、横浜DeNAベイスターズとなり、中畑清を監督に招聘して生まれ変わりました。

買収前年には12球団最下位だった観客数も3年連続の増加で、14年は8位まで上昇しました。毎年約30億円と言われた巨額の赤字もほぼ半減しています。

さらに、15年からはDeNA創業メンバーの一人・南場智子が球界初の女性オーナーとなり、新しい発想で経営体質の改善を続け、今の横浜ベイスターズがあるのです。

こんな、親会社によってドタバタ劇を強いられてしまった横浜DeNAベイスターズ。もうこんな悲劇を味わわないでもらう事を、ファンとして祈るばかり…!