?轄イ浦

浦霞の本社蔵 塩竈市は日本三景松島湾の一部千賀の浦に面した人口6万1千人ほどの港湾都市です。古く江戸時代藩政期の塩竈は、藩主伊達氏の崇敬篤い塩竈神社の門前町として、また仙台の海の玄関口として仙台への荷揚げ港、松島遊覧の発着所として諸税免除等の恩恵を受けながら大いに発展しました。訪れる多くの旅人のために旅篭や歓楽街が神社の門前近くに軒を連ね、活況を呈していたと云われています。現在は年間558万トンの貨物を取り扱う商港として、168億円の水揚げを誇る漁港を有し松島湾の観光港も併せ持ち、全国的にも重要港湾として位置付けられております。 蔵元佐浦の沿革 享保年間に塩釜神社のお神酒酒屋として創業。佐浦家の初代・尾島屋富右衛門は、はじめ麹製造業を営んでいましたが、1724年に酒造株を譲り受け、以来塩竈神社の御神酒を醸し続けてまいりました。大正12年頃、東北地方で陸軍大演習があった時に、当時摂政官であった昭和天皇にお酒を献上する栄を賜りました。それを機に万葉時代からの歌枕であった塩竃を詠んだ源実朝の歌、「塩がまの浦の松風霞むなり 八十島かけて春やたつらむ」(金槐和歌集)から引用し浦霞と命名しました。昭和に入り、第二次大戦の戦時下でも製造を続けてまいりましたが、企業整備の波にのまれ、仙台酒造株式会社浦霞工場となりました。昭和30年代に入り、仙台酒造株式会社は解散となり、昭和31年10月1日に株式会社佐浦が誕生いたしました。蔵元佐浦は故平野佐五郎杜氏が中心となって南部杜氏修行の道場的な役割を担い、地酒の品質向上に大きく貢献致しました。その後、「浦霞禅」が吟醸ブームに火をつけ、全国の酒蔵で使われている酒造り酵母協会12号は佐浦から採取されたもので地酒ブームのさきがけとなりました。 酒蔵は観光桟橋からもほど近いところにあり、数十年前までは蔵の裏手まで船が入り、荷の積み下ろしを行なっておりました。 敷地内には江戸時代末期に建てられた土蔵や大正時代の石造りの蔵があり、仕込み蔵として現在も使用しております。これまで多くの鑑評会において数々の好成績をおさめております。国税庁主催の全国新酒鑑評会では本社蔵が平成7年、8年、9年、12年、13年と金賞を受賞しています。矢本蔵は平成11年、12年、13年と金賞を連続受賞しています。東北清酒鑑評会では毎年金賞に輝いております。平成14年東北清酒鑑評会では本社蔵・矢本蔵ともに 吟醸酒の部で優等賞を頂きました。 宮城の若きリーダー「佐浦社長」 今年(平成15年)は2月に入ってからも例年になく連日厳しい寒さが続いております。酒造りにとってこの寒さがなによりの自然の恵みです。その酒造りの最終段階「吟醸造り」が続く塩釜の株式会社佐浦を訪れました。宮城の酒蔵の中でも一ノ蔵と並んでダントツの石高を誇る蔵元の若き経営者13代目佐浦弘一社長は、280年の歴史を誇る蔵元佐浦の代表取締役社長として、日本酒造組合中央会評議員、宮城県酒造組合青年部宮城醸和会の会長、日本酒造青年協議会会長、そして東北青年清酒協議会監事など数々の要職についておられます。40才の佐浦社長は慶應義塾大学卒後日本コカ・コーラ株式会社に入社、その後経営学の勉強のため2年間ニューヨークでの留学を経て佐浦に入社いたしました。入社後、矢本蔵や研究棟の建設など数々の事業を成功に導き、昨年先代が亡くなられた後代表取締役社長就任されました。「造り酒屋の長男として生まれ、蔵人や瓶詰めの従業員、まかないのおばちゃんや事務所の人々、蒸した米の匂いやほのかに漂うお酒の香り、土蔵の倉のちょっとしめった空気、そんなものに囲まれて育ちました。日本酒は私たちの生活に潤いや安らぎ、豊かさをもたらしてくれる素晴らしいものだと思います。そして、そんな日本酒に関わる仕事ができることを心より嬉しく感じています。今後もより多くの人達に、日本酒の素晴らしさを伝えて行きたいと思っています。家訓というか酒に関していえば心を込めて良い酒を造って、お得意さんには誠意を持ってあたれという言い伝えみたいなものがあるので、それを守っていきたいと考えています。」との言葉どうりの優しく誠実な人柄と、その静かな物腰には人を引きつける魅力に溢れておりました。酒造りで一番大切なことは?と尋ねると「米・水はもちろんですが杜氏の酒造りへの熱意と卓越した醸造技術が一番大切です。」との答えが返ってきました。そのため佐浦では宮城の蔵元では唯一、平野部長以下本社蔵小野寺杜氏、矢本蔵鈴木杜氏とも通年杜氏として仕事に専念できる環境を整えております。浦霞の酒質について尋ねると「気軽に飲めて、飲みあきしない酒、自己主張が強くない酒です。なんと言っても料理と一緒に飲める楽しい酒が浦霞の目指す酒ですね。酒造りは杜氏に任せておりますが、蔵元として酒質の安定と向上を目指し、加えて新製品開発のため分析室や研究室を新設いたしました。」これからの酒造りについては、「日本の四季に合わせた季節感のある酒をもっと強化したいと思っています。私は、春先や夏は絞りたての酒で新酒の香りが良い生で飲む生酒、秋口にはちょうど酒も熟成してきてうま味が出たひやおろし、年末にはお燗をして飲んでも良いような酒、こういう従来の酒の中で季節に応じた酒を出していけば、消費者のみなさんに楽しく飲んでいただけると思っております。」アンテナショップとして、中央の情報を収集するため東京赤坂の日本酒バー「れくら」や東京銀座のワインバー 「グッドドール」 へ資本参加したり、地元の方々に日本の伝統文化としての酒造りへのご理解を深めていただくため4年ほど前から佐浦社長みずから講師となって「うらかすみ日本酒塾」を開いたり、、また醸和会主催で20代から30代の女性をターゲットにした「日本酒を楽しむ女性セミナー」を4回にわったて開いたり、宮城の蔵元の若きリーダーとして先見性に富み、積極果敢に活動されております。今まで宮城の酒蔵を取材した中で、特に佐浦で感じたことは次代を担う若いスタッフが多いこと、そして酒造りの王道を極めるため最新の分析機器を揃え、杜氏、蔵人、社員が一丸となって楽しそうに働ていることでした。 「私どもの願いは、私たちが心をこめて醸した酒を最高の状態で皆様方に味わっていただくことです。今後も、皆様により満足いただける品質と品格のある酒造りを続けるため最善の努力をし、宮城の地酒・浦霞として、日本文化の伝統を守っていきたいと考えております。」 酒造りの現場 昭和30年代、蔵元佐浦は、名杜氏とうたわれた平野佐五郎氏の元、南部杜氏の修行の場として全国に知れ渡っておりました。「良い酒を造るためには損得抜きでいけ」との11代社長の考えのもと、高品質の酒造りを目指し、平野佐五郎氏に酒造りを任せ、米を磨き、設備を整えました。その後、佐五郎の甥の重一氏を中心に若い杜氏があとを任されています。原料米は主に宮城県産の蔵の華、トヨニシキ、ササニシキ、ひとめぼれや八反、兵庫県産山田錦を使い、仕込み水は松島湾近くのやや硬水の井戸水を使用しています。酵母は自家酵母(浦霞酵母)を用い、低温でじっくりと時間をかけて発酵させます。各段階において基本に忠実に丁寧に造ることを心がけています。 本社蔵杜氏   小野寺 邦夫 (岩手県室根村出身)平成9年より本社蔵杜氏 平野重一氏に才能を見込まれ佐浦に入蔵。矢本蔵杜氏    鈴木 智 (地元塩釜出身)平成8年岩手県出身者以外では初めて南部杜氏協会より「南部杜氏」の資格を認定される。 現職南部杜氏最高の匠 平野 重一取締役製造部長(岩手県北上出身)平成元年 労働大臣表彰(現代の名工)平成五年 叙勲(勲六等瑞宝章)南部杜氏最高の証・首席大蔵大臣賞を4回受賞。(現役最高)…

墨廼江酒造

宮城の蔵元の中でも全国的に有名な墨廼江と日高見の蔵がある石巻市は宮城県の北東部、仙台市より東に50km、車で1時間の旧北上川が太平洋に注ぐ河口に位置し、市内中心部にある日和山公園からは、西に松島、東に牡鹿半島・金華山を望める風光明媚な景色が楽しめる町です。古くから、江戸廻米を中心とした海運、北上川舟運の交易基地として賑わい、また世界3大漁場の1つである金華山沖の漁場を有し、日本有数の港町・水産都市として食通にはこたえられない新鮮な魚介類や、ささかまに代表される水産加工品など海の幸に恵まれています。食通、酒通の町として、レベルの高い地酒が育つ土壌の中で墨廼江酒造は育ち、銘醸蔵として大輪の花が咲こうとしています。 墨廼江酒造の沿革 弘化2年創業。(1845年)澤口家の初代・澤口清治郎は、仙台・河原町で「泉屋」と云う屋号で山形から紅や呉服反物などを扱う商社(問屋)に生まれました。親族経営だった「泉屋」では、商人向きではなく、遊び人だった清治郎を息子・安治と共に、当時米の積出港として栄えていた石巻に別家に出しました。その後、本家「泉屋」より分けてもらった財産を元手に海産物問屋と穀物問屋を始めました。若くして他界した父に代わり事業を継いだ二代目・安治は商才に優れ、どんどん事業を拡大していきました。海産物問屋としては、三陸漁業権の七割を確保した程でした。本場静岡焼津より職人を呼び寄せて、石巻では初めて鰹節を製造し、ラッコ船にまで手を広げていきました。当時、蔵のある地域には水の神様を祭る墨廼江神社があり、その地名墨廼江を、そのまま酒名にして酒造りを行っていた井上家という商家がありました。初代・清治郎の代より井上家に酒米を納入していた縁もあって、造り酒屋を譲り受けて創業したのが1845年弘化二年のことでした。当時は酒造りの方はあくまでも副業的な存在で事業の柱は海産物問屋、穀物問屋でした。その後三代目・清治郎の時代になり、昭和3年約2600人の犠牲者を出した大津波が三陸海岸(三陸大津波)を襲い、本業の問屋業が壊滅的な被害を受け、その後酒造りが本業になったと言われております。その後四代目・安五郎、五代目・安右衛門と酒造り一筋に専念し、現社長・康 紀が平成11年10月に六代目に就任し現在に至っております。   初代本家泉屋の時に、一世を風靡した名力士谷風の父親が「泉屋」で番頭をしていたことから、谷風の商標を取得し、現在夏冬の限定品純米大吟醸に谷風の名が使われています。 澤口康紀社長の誠実な酒造り! 以前、卸店主催の宮城の地酒内覧会の会場で、内覧会終了間際、ただ一人、20以上ある各蔵のコーナーで出品酒の全てをきき酒をしている蔵の社長がいました、その方が今回紹介する墨廼江酒造6代目の澤口社長です。 その時のことをお聞きすると「私は蔵元として、きき酒の会場では、全ての酒をきくのが礼儀と思っています。ここの酒はきくが、あの蔵の酒はきかないとか、吟醸や純米はきくが本醸造はきかないお客様方がいらっしゃいます。私ども蔵元は、全てのお酒に対し真剣に精魂込めて造っているので、出品した全てのお酒をきいてほしいんです。そして全てのお酒を利くことにより、その蔵の造りについての思いが必ずや伝わってきます。」 社会人になるまで酒蔵を継ぐことなど考えなかった澤口社長は、武蔵大経済学部を卒業後、東京のタカキュー洋服店に勤め、気楽なサラリーマン生活をしていました。ところがタカキュー入社して2年後、父親の前社長が体調をくずしてしまい、親のたっての希望から、家業の墨廼江酒造に入社することになりました。当時の墨廼江酒造は、酒造業を経営する傍ら、夏場の閑散期にはビールや飲料を扱う問屋業も営む会社でした。当時は灘・伏見の清酒全盛の時代で、質より量を求める清酒業界の中で、浦霞の禅や一ノ蔵無鑑査が脚光を浴びつつある時代の中、酒造りに関心もなく育った澤口社長は、自らの酒造りの勉強のため、入社してすぐ滝野川にあった国税局醸造試験所(現在は広島にある国税局醸造試験所)に研修に行きました。その時、今の墨廼江酒造の基本となる数多くの出会いがありました。そこでは全国から集まる、蔵内最高の鑑評会用の出品酒を思う存分飲むことができ、初めて出品酒の持つ本物の酒のすごさを身をもって経験しました。澤口社長は当時を振り返って「醸造試験所での半年間は素晴らしい経験をすることが出来ました。全国から集まる鑑評会用の酒を連日連夜試飲することができ、自分の蔵の酒とのかけはなれた素晴らしい酒に出会い、ここでの半年間で酒造業を継ぐ心構えと酒造りへの情熱が芽生えました。」「当時の広島の醸造試験所は、酒造業の後継者は無料で研修を受け入れていただいた為、研修生は、ほとんど酒蔵の跡取りでした。その当時の仲間とは今でも親しくお付き合いさせていただいています。」 その後、会社に戻った澤口社長は、卸部門を切り捨て、桶売りを止め、大きなタンクを廃棄し、量より質の転換を目指して大リストラを断行しました。そして今までの努力が実り、地元ではもちろん、東京や仙台でも墨廼江ファンが数多く、宮城を代表する酒蔵となりました。「酒造りは、酒が好きでなければいけません。道楽と仕事が混在しているのが酒造りです。年ごとに、米の出来具合、気候や気温、水の温度など、酒の味わいに直接影響する要素が違うんです、酒造りは毎年が1年生ですよ。酒を造る時期は気を抜けません。」と語る社長は、「お客様と品質を大切に」を信条に、寒仕込みのシーズンには、社長自ら酒造りにあたります。「酒を造るには酵母と麹菌です。私たちは、この微生物たちが活動しやすい環境を整えてやることです。基本を忠実に守り、手間を惜しみません。その造りの中でも、最も蒸しを重視しています。長年の経験から、蒸しがうまくいけば、必ずおいしい酒が出来上がります。」 墨廼江酒造の目指す「綺麗」「品格」「飲み飽きない酒」を消費者の方々へ提供していきたいと頑張っています。 ▲米洗いの作業でザル取りしています。 ▲一番大切な蒸しの作業。 ▲酒母室で温度経過を計っています。

寒梅酒造

国道347号線から見える工場の外観。 全国的に有名な宮城米「ササニシキ」「ひとめぼれ」「ささろまん」の誕生の地古川は、仙台から車で北へ約1時間、県北の中心にあり、緑豊かな田園都市です。秋の収穫期を前に、稲穂がたわわに実っている田園地帯を進むと、多田川のたもとに、ひっそりとしたたたずまいの酒蔵が見えてきます、そこが新潟の越乃寒梅、埼玉の寒梅と並んで、日本の三寒梅と称される寒梅酒造です。生産量が380石の小さな蔵ですが、小回りの良さを活かした斬新な酒造りには定評があり、常に新しい酒造りに挑戦している酒蔵です。> 寒梅酒造の沿革 大正5年、岩崎酒造の名で創業されました。その当時、地域一帯15町歩以上を有する地主で、小作人から地代の代わりに集めた産穀米を使って酒造りを始めたのが事業の始まりでした。清酒「誉の高川」の銘柄で地元を中心に販売してましたが、昭和14年戦時下の中、米不足のため製造を中断しました。昭和32年、酒造りへの熱情から合名会社寒梅酒造の名で復活しました。生産量の中で純米酒が占める割合が50%と大変多く 吟醸を含めると全体の70%以上が本物志向の個性豊かな地酒で、純米酒以上全て冷蔵瓶貯蔵しています。そのため30坪の冷蔵設備とコンテナ2機の冷凍設備を有しています。酒造りに欠かせない宮水の”宮”と、 厳しい寒さに耐え万花に魁けて花開き、人々の心を和ませ、純潔な雄姿を表す”寒梅”、その実が結ぶようにと、「宮寒梅」の銘に込めて命名しました。 これまで国税庁主催の全国清酒鑑評会では、金賞を4度受賞し、東北新酒鑑評会でも多く受賞しています。高齢のため杜氏が引退されたため平成11年の仕込みから地元の蔵人4人と専務自ら酒造りに挑戦し見事東北新酒鑑評会の吟醸の部で優等賞を受賞しました。 岩崎社長の酒造りの基本は米?! 2町3反の自作田を持つ強みを生かし、様々な酒造米を栽培している寒梅酒造では、現在の酒米のルーツと云われているジャポニカ種の三大品種・・・愛国、亀の尾、神力で仕込んだ酒造りに挑戦しています。酒造りの基本は、米にあるとの信念で、米づくりから取り組んでいます。昭和53年から栽培を始めた「美山錦」は、寒さに強く大粒なのが特徴で、米の半分程度を削り取って醸す純米酒や吟醸酒には、欠かせない酒造米です。他に、ささにしきやひとめぼれ、まな娘、愛国なども栽培し、純米酒として製品化しています。亀の尾は、当地での栽培が難しいため、大潟村の鈴木秀則氏と契約した有機栽培米で仕込んでいます。神力も同じく当地での栽培が難しいため、熊本より取寄せています。「これからも、若い人をターゲットに、いろいろの米を使ってニーズの多様化にこたえていきたいと思ってます。」 岩崎 隆聡氏  (社長と杜氏を兼任)  学校卒業後、地元で営業など社会勉強後昭和59年家業の寒梅酒造へ入社。農家の仕事をしながら営業や蔵人を経験し、昨春杜氏が引退したのを機会に、製造責任者として本格的に自社の酒づくりに取り組んでいます。「酒造りは小さい頃から現場で見よう見まねで体で覚えました。でも本当は何もわからないんです。4人の蔵人たちがそれぞれの役割の中で杜氏の技をマスターしたおかげなんです。酒造りはチームワークだと思っています、全員一丸となって力を出し合ってこそいい酒が出来ます。酒瓶に私を含め蔵人全員の名前を刻んでいるのがその証です。自分たちがうまいと思えばそれを信じればいいんです。しして自分で一から造った酒がうまいといわれた時の幸せは、なんとも言えないません。まだ内緒ですが今年も新たな取組をします。酒造りに遊び心を持ちながら生産者の顔が見えるような酒造りをしたい。」酒造りは毎年一年生ですと話す岩崎専務の目に少年のような輝きを見ました。 現在の生産量は380石、大吟醸、純米大吟醸、純米吟醸、純米酒、本醸造酒など特定名称酒が全体の9割を占め、わずか1割が近隣の方々にご愛飲されるている普通酒です。8月行われた古川地区初呑み切り巡回指導でも今年の酒は今までになく濃醇に仕上がっていい出来ですねと5人の先生方からお褒めの言葉を頂きました。 愛国 愛国は昭和初期作付けされた米のひとつで、現在はほとんど作付けされていません。茨城の育種改良普及研究所から、132粒の種籾を譲り受け、自作田で3年かけてタンク1本分の米に育て上げた幻の米です。愛国で作った一粒の煌めきは、やや辛口で酸味のあるフルーティーな味わいが特徴です。 亀の尾 昭和初、中期までは作付けされていましたが、収量と病害虫に弱いことから今ではほとんど作付けされません。亀の尾の米は、タンパク質含有量が少なくため、酒米として優れているため芯の強い酒で出来ます、年数がたってもへたらず搾った時とかわらない酒質が保たれるのが特徴です。 神力 明治初期兵庫県の農家が偶然発見した品種で、大粒で風雨によく耐えて倒れにくく籾の外皮が薄くて脱穀しやすく、しかも食糧難の時代に、他の品種より3割近くも多く収穫できたことから、神のご加護による賜り物として「神力」と命名。神力で出来た酒は、香りがありふくらみのある酒に仕上がります。 ▲12月の初仕込み待つタンク → ▲仕込み蔵内部のタンク。 ▲実りの秋の刈り取りを待つ独特の赤い稲穂の愛国米…

?且R和酒造店

▲白壁に囲まれた情緒たっぷりの酒蔵です。。 中新田町には、幻の陶器として有名な宮城を代表する陶器「切込焼」などを展示している東北陶器文化館や、詩人宗左近氏が収集した「輪々コレクション」と呼ばれる縄文土器を集めた縄文芸術館、墨絵の大家で、日米で数多くの賞を受賞した河合敏雄氏の作品を展示している墨雪墨絵美術館など、数多くの歴史的施設が点在しています。昭和52年に日本有数のパイプオルガンと音響設備を誇るバッハホールが設立され全国的に有名になった中新田町は、ササニシキの本場、大崎平野の一角にあり、東北の屋根奥羽山脈の懐に抱かれ、舟形山系の弱硬水がふんだんに湧出し、伊達藩時代からの穀倉地帯として、宮城の酒どころとしても昔から知られております。その中新田町にあって医食同源を旗印に水、米、作りを徹底的に研究している酒蔵が?且R和酒造店です。  ?且R和酒造店の沿革 明治26年、初代伊藤和兵衛氏が家業の薬屋を廃業し、酒造業を始めたのが事業の始まりでした。そもそも造り酒屋の前身は、その地域の名家で大地主が多く、小作人の方々をねぎらうために、豊富な余剰米を使って、お酒を造って飲ませたと云うことです。しかし山和酒造店の初代和兵衛は、地主でも何でもなく、ただ酒屋をやりたいという熱い思いだけで始まったもので、無い無いずくしからのスタートであったようです。原料米の確保や、厳しい酒税の取り立て、蔵人の人件費の調達等、筆舌につくし難い苦労を重ねで今日に至ってます。「わしが國」は寛政年間(1787年~1800年)の伊達藩の愛唱歌で、仙台名物を歌った「わしが国さでみせたいものは、昔、谷風、今、伊達模様」より命名されました。 これまで多くの鑑評会において数々の好成績をおさめております。 厳正な審査の南部杜氏自醸清酒鑑評会での優等賞入賞30回(30回入賞工場は全国で4工場のみ) 平成11年東北新酒鑑評会吟醸酒の部で金賞を受賞。 平成12年東北新酒鑑評会吟醸酒の部で優等賞を受賞。 伊藤 智幹社長が吟味している酒造りとは?! 取材の時の定番「社長の酒造りに対するこだわりについて?」と尋ねると 20秒ほどの沈黙があり ・・・・・・・・・・・・・・、 「こだわりなどと云っているんではまだまだですね千葉さん。 酒造りはこだわりではなく、吟味することなんです。 以前は、水、米、そして酒造りにこだわりをもっていましたが、今では、こだわりではなく、その上のレベル・・・吟味することです。 私が目指している酒造りとは、もはや医食同源のレベルにまで高めることです。自然が一番です。作り手のまっすぐな心と共鳴しあった天然水を使い、吟味した最高の酒米を、洗米から仕込みの最終段階まで、昔ながらの愛情を込めた手作りの技法で熟成させて、初めて最高の酒となるんです。」 水・・・いままで水について研究し、科学の力を借り、医療用等に使われている超高磁力分離機を通して、クリーンで固有振動数の大きい、エネルギーの高い水を使ったり、試行錯誤していましたが、今は、自然の偉大な力の中で、地下の複雑な堆積層などを還流し、湧き出た自然の水が最高との結論から、 1週間に1日は、必ず最高の天然水を求め県内を回っています。現在使用している舟形山系湧水も最高の水ですが、現状に満足せず、飲んだ時爽やかな青空のような最高の水を求めて、県内を探し回っています。もちろん天然水にも超高磁力分離機を通しています。 「減農薬を無農薬と偽っている米が多い中、本当に無農薬ですか?」 の質問に、 米・・・昔は山田錦にこだわりましたが、純米酒以上は…

萩野酒造

▲文化財有壁本陣の向かいにある工場。 仙台から車で北へ約1時間40分、岩手と宮城の県境にあり、昔から交通の要所・旧奥羽街道の宿場町として栄えた面影を残す町金成は、平安時代金売吉次の親・炭焼藤太が金を発見、金が成る所としてその名がついたと云われています。 平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝の礼として観音堂を建立、後に平泉討伐の折、源頼朝が金成に宿営し那須与一の扇の的に凝して舞ったのが初めと伝えられる祭り「小迫の延年」、松尾芭蕉の「奥の細道」や民話の中に金成の歴史とロマンが数多く残っております。 その金成で江戸時代末期天保年間に創業され、160年以上の長い歴史と伝統の中で酒造りに、飽くなき情熱を傾けている酒蔵萩野酒造です。 萩野酒造の沿革 奥州街道の宿場町として栄えた有壁の宿場・有壁本陣の分家にあたる萩野酒造は、江戸時代末の天保年間(1840頃)に創業されました。旧萩野村の地主だった萩野酒造の初代が、集めた産石米を、どのように活用するか思案をかさねた末、その米を使っての酒造りを始めたのが事業の始まりでした。大戦中は、米造りに使う釜などの金属類は全て徴収され酒造りを中断していましたが、戦後近隣農家の方々の協力をえて昭和23年酒造りを復活させ今に至っています。 酒米は全体の3割が、自作田と近隣農家と契約栽培してるいる美山錦、他にひとめぼれ、トヨニシキや山田錦、蔵の華などですが、他には備前の酒米雄町を使っています。水は酒蔵から1?`ほど離れた自社所有の霊堂山に豊富に湧き出る奥羽山脈の栗駒山を水源とする自然水(軟水)を使っています。特にその自然水は絶品で、見る人皆驚嘆するほどの美しさです。 これまで多くの鑑評会において数々の好成績をおさめております。最近の国税庁主催の全国清酒鑑評では、平成4年以降4回金賞を受賞、東北新酒鑑評会でも多く受賞しています。特に平成8年秋の東北新酒鑑評会に於いては首席で受賞しました。 佐藤 有一社長の鑑評会への取組とは?! 今から20年以上前に東北新酒鑑評会の審査員として、各酒蔵が出品する清酒の鑑評をしていた時、鑑定官からあなたのところでも出品したらとの誘いを受けたのがきっかけで、今の酒造りに目覚めました。 「自作田の美山錦使って、酒造りをしていましたが、自分なりにおいしい酒との思いから、純米特有のもったりとした純米大吟醸を造っていました。ところが、それでは鑑評会に入賞できないと知り思い切って切り替えました、それは醸造用アルコール加えてサラッとした吟醸香のある酒にすることです。醸造用アルコール加えることにより、サラッととした飲み口になり、日持ちがよくなり、色つきやひね香が出にくくなります。その酒造りにあった酵母を探すため秋田や青森、他の醸造試験場に行ったり大変苦労しました。いろいろな酵母をためし、その試行錯誤の末 精米歩合を35%におとし低温発酵でまろやかなで、調和のとれたさわやかな旨味と、果実のような芳醇な、フルーティーな香りのする吟醸酒ができあがり、鑑評会でも入賞するようになりました。」と話す佐藤専務。 続けて、今の酒造りについては「米・水・酵母を吟味し、杜氏の造りやすい環境を整え、麹室の大きさや作業効率を考えて仕込みの量を適正な規模におさえて造るように心がけています。味や香りにくせを付けないため”槽搾り”と云う昔ながらのやり方で酒を搾っています。搾った時、生まれが軟らかい吟醸香のある味はばのひろい酒は飲み頃なので最初から冷蔵庫にいれて貯蔵しますが、搾った時水のようなしぶ酒のようなキリっと酒は、冷蔵庫に入れないで秋まで低温貯蔵し味ののりを良くして甘みを膨らませてから出します。あくまでも手で会話をしながら酒を造っています」とのこと。 その真剣な姿勢に、数々の鑑評会を総なめにしていながらも、まち子夫人と共に最高の酒造りを目指して新たな酒造りへ挑戦している佐藤社長の真剣さをうかがうことが出来ました。 酒造りについて 現在の生産量は500石、大吟醸、純米大吟醸、純米吟醸、純米酒など特定名称酒を中心に、その他は近隣の方々にご愛飲されている普通酒です。 瓶詰めと販売は、金の井酒造(株)と協同で運営しているさ々錦協同組合に委託しており、さ々錦ブランドで販売している銘柄もあります。 ▲造り蔵の入り口上に酒の神様「松尾神社」の神棚が飾られています。 ▲酒蔵の外観…

?鞄c中酒造店

中新田町は、仙台の北西部に位置し、ササニシキの本場大崎平野の一角に位置する人口約1万5千人ほどの田園都市です。奥羽山脈からの吹き下ろす冷たい北西風によって冬は雪が多く酒造りには最適の地です。中新田の町名の由来は、古く南北朝時代に斯波家兼が中新田に城を築き、当時「にった」と呼ばれていた地を、仇敵新田義貞と同音であるところから「にいだ」に改めたと云われています。現在は米作が主産業ですが、キノコ栽培や鮎の養殖などの地場産業も盛んです。 寛政元年創業の蔵は、明治大正と酒造業の他に多くの不動産を所有し呉服の太物販売など幅広く多角経営をしていました。今の社屋は呉服商をしていた当時そのままで、歴史と風情を感じさせます。 ?鞄c中酒造店の沿革 太物(呉服)・古着の販売をしていた初代田中林兵衛氏は、事業欲が旺盛で、新たに副業として寛政元年(1789年)に酒製造業を始めました。当時、田中^家は二つに分家して、呉服屋を中心に貸金業、質屋、地主、醤油醸造業、酒造業などを兼業していました。現在も地元では、田中酒造より田林の名で親しまれています。9代目現社長の祖父が、昭和10年代の物資統制令を境に呉服商を廃業し酒造業を中心に事業展開をしました。伊達家の藩政時代には、代官など4つ会所が置かれた加美郡政治の中心地でもある中新田で、「東華正宗」の銘柄で地元を中心に販売していました。その当時の城主只野伊賀の奥方只野真葛は、南総里見八犬伝の滝沢馬琴らと交流があり、女流詩人としても知られておりました。真葛は、庭で舞遊ぶ鶴をこよなく愛し、鶴の歌を数多く詠んだと云われています。当時「名酒東華正宗」を献上した際、あまりの美味しさにいたく感激した城主が「真鶴を酒名とせよ」と申され、以来「真鶴」の銘柄で販売しています。創業以来、伝統の麹蓋での製麹法、こしきでの蒸し米など昔ながらの手造りにこだわった酒造りに専念しており、そのため真鶴全商品に手造りラベルの表示をしております。近年軽くて透明感のある酒がもてはやされている中、「しっかりした味わいで、透明感のある酒」この相反した難題に対する答えを求めつつ旨口の酒造りの伝統をかたくなに守り続けています。今人気の宮城酵母などの香りの強い酵母はあえて使わず、昔ながらの手間のかかる山廃造りを守り、ぬくもりを大切にした木の暖気樽を現在を使用しています。 東北清酒鑑評会受賞。南部杜氏自醸酒鑑評会受賞。 故田中社長のインタビュー 九代目田中宏明社長は現在58歳、東北大卒業の逸材で宮城の蔵元の中でも、利き酒の実力は随一、魅力溢れる人柄です。社長の酒造りとは?との質問に「基本どうりに、手抜きをしないで、昔からの酒造りを守って造ることです。酒造りは、交響楽団と同じです。指揮者が、コンサートマスターを中心に各パートの能力を引き出し一つの楽曲を仕上げる。そして演奏会の場で聴衆へ作品を披露し評価をいただく、指揮者が変われば、同じ楽曲でも変わります。”私の作品はどうですか?感動したでしょう”との挑戦的な姿勢が酒造りにも大事なんです。コンダクターが私で、コンサートマスターが杜氏、蔵人が各パートで、それぞれの能力を存分に発揮し入魂の一品を仕上げる。今まで、長く酒造りに携わっての経験で”昔どうりにやればいい”との結論で、昔から方法で乳酸菌を自然に増殖させての山廃仕込み、麹は全て麹蓋を使っています。通常の速醸系酒母より時間と手間がかかりますが、間違いなくおいしい酒が出来上がります。」「全国的に有名なバッハホールがある当地と云うことで先程は酒造りを交響楽団に例えましたが、酒造家は、料理の板前やシェフと同じで、自分の造った酒を自信を持って飲む手に味わってもらい、どうだ旨いだろうと云う感覚が必要なんです。」「私は、幅があり軽くて透明感のある酒が好きなんです、でも板硝子のような薄っぺらなものではなく、ステンドガラスのような厚みのある重厚なもので、今どきの香り強い酒ではなく、きちんと味があって透明な酒が好きなんです。そんな酒を目指して造っています。」>そして地酒とは、その土地の米や米生産者と一緒になって造り上げる、それが本当の地酒であるとの信念から宮城を代表する酒造好適米「蔵の華」の開発に尽力し、こよなく酒を愛している社長です。 田中酒造店の特長社長と2時間余り取材した後、製造責任者の中川氏に蔵の中を案内して頂きました。当蔵は宮城で唯一山形県酒田市から来てる庄内杜氏の長谷川さんを中心に、総勢9名、全員30代から50代までの熟練した蔵人が酒造りにあたりっています。こちらの蔵の造りで特徴的なのは、昔ながらの造りにこだわっていることです。麹は通常は吟醸造りにのみ使う麹蓋を全量に使い、酒母の温度調整をするために、今では珍しい木製の暖気樽を使っています。 ▲洗浄中の木の暖気樽 ▲麹蓋が並べられた麹室の内部。 ▲吟醸酒用に搾る槽

?兜ス孝商店

 平孝酒造のある石巻市は人口約12万人、東洋一大きな漁港を持ち、南三陸金華山国定公園の玄関口に位置し、大河「北上川」の河口に開けている日本有数の港町です。江戸時代には,奥州六十二万石伊達政宗の所領となって,幕末まで仙台藩の江戸廻米を中心とした北上川舟運の交易の基地として、また漁港・造船場として栄えました。俳人松尾芭蕉も「奥の細道」でその繁栄ぶりを書き残しております。 現在では石ノ森章太郎氏ゆかりの地として石ノ森漫画館、伊達政宗の命を受けた慶長使節の支倉常長氏ら一行のローマ出航の地としてのサンファンバウディスタパークなど見どころいっぱいの石巻に、日高見の銘柄で全国の地酒ファン垂線の銘醸蔵、地元に愛され、地元の誇りとなっている「平孝酒造」があります。 平孝酒造の沿革  文久元年創業。(1861年)岩手県の「菊の司」酒造から分家し当地で酒造業を開始しました。石巻沿岸の金華山沖では暖流と寒流のぶつかる世界三大漁場のひとつとして四季折々に美味しい海の幸を楽しめる石巻は、江戸時代には伊達藩と南部藩の米の集積地として栄え遠く江戸や大阪に物資を運んでいました。その当時、造り酒屋を開くには藩の許可が必要で、一宿に一軒と定められ16軒もの造り酒屋があったと云われています。平孝酒造のある清水町は、その名の通り名水が湧き出る地として有名で、初代が酒造りに最適地とのことで当地に開業しました。平孝酒造では、普通酒の銘柄を「新関」、特定名称酒を「日高見」として販売しております。「新関」は、レギュラー酒として、主に地元で親しまれております。「日高見」は、全国レベルで通用する酒を目指そうと開発された銘柄で、酒名の「日高見」は、日本書記の中に「土地沃壌えて広し」と記されているように、その昔太陽の恵みを受ける国「日高見国」と称えられ、その中央を流れる川「日高見川」が後に北上川と呼ばれる様になり郷土と深い関り合いがある事に因んで地域性重視の観点から命名しました。 平井孝浩社長のロマン100%の酒造り 東北学院大学卒業後2年間、東京の大手問屋にてサラリーマン生活を経験した後、昭和63年家業の酒造業に大志を抱いて帰郷しました。当時は灘・伏見の普通酒が全盛で、条件競争に明け暮れる酒類業界の中で現実の厳しさに直面し、苦悩する毎日を過ごしました。問屋のセールスと同行して自社の酒を持って酒販店を営業する(置回り)毎日の中で、思ったように売れない苦悩の日が続きました。そんな中で酔うためだけの酒でなく、楽しめる、おいしい酒を造りたいとの思いが日増しに強くなってまいりました。そんな普通酒全盛の清酒業界の中から、一ノ蔵無鑑査や浦霞禅など本物志向の地酒が脚光を浴びる新たな時代を迎えました。当時を振り返って「酒造りのない夏から秋にかけて、杜氏と二人三脚でおいしい酒を求めて酒造りに取り組みました。時には東京まで杜氏を連れて行き、おいしい酒を見つけると、こんな酒は出来ないものか?と試行錯誤する日々を5~6年間は費やしました。そして新酒が出来ると置回りして販売するとの繰り返しが続きました。いくつかの銘柄を出しては消える繰り返しの中から、今の日高見の基礎が出来上がっていきました。」平成4年の級別廃止が追い風となり、河北新報で「日高見の国」が連載され脚光を浴びたのも後押しし、その過程の中で社長の思いに賛同する酒販店も現れ始め、それが現在の日高見会(平成4年発会、宮城県内で40店ほどが加盟)の前身となっています。その当時を振り返って「悩んでいたけれども、良い人たちに恵まれ支えられていたことを、強く感じています。」 蔵元として「一番大切な事は自分の蔵の酒質設計を描くことです。これからの時代、蔵元自体が造りの技術を作り上げなければならない状況を迎えました。一定の味を保つため絶えず試行錯誤する毎日の中で、酒造りの設計図を書けるまでに成長しなければとの思っていました。15年間のノウハウをまとめた資料をマニアル化することよって酒造りの設計図が描ける環境が出来上がり、今では設計図によって出来上げる酒の酒質を100%実現できます。」現場の酒造りについて「最初の原料処理で8割が決まります、そのため浸米から細心の注意を払って仕込みます。酒造りと貯蔵が同じくらい大切なため、絞った酒は100%冷蔵貯蔵します、私は、お客様の口に入るまでが酒造りと思いから、火入れのタイミングを私自身で決めています。」 酒蔵の組織を大リーグ体制に例えて蔵元(社長)はオーナーでありゼネラルマネージャー。杜氏・・・監督。蔵人・・・選手。酒販店・・・コーチ、スタッフ。 消費者・・・観客。 観客である消費者に楽しんで頂けるお酒を造るのが蔵元の仕事と思っています。 酒造りをオリンピックの体操の演技に例えて規定演技・・・3000円以上の酒。吟醸酒・大吟醸酒・純米吟醸酒最高の原料米(山田錦、雄町、八反など)を使い、最高の技で取り組んでいます。主に首都圏や仙台など大消費地で販売されているため、蔵のレベルが試されているものと思っています。自由演技・・・3000円以下の酒。本醸造・純米酒宮城の酵母を使い、米を使い、宮城ならではの酒造りをしています。、 宮城の酒蔵全体を宮城県選抜野球チームに例えて一ノ蔵さんや佐浦さんが3番、4番の中心バッターの重責をはたしている宮城選抜チームの中で平孝酒造はピッチャーであり、1番バッターのポジションを目指しています。そして、宮城選抜チームが、新潟や山形などの強力チームと真っ向から勝負したいと思っています。 最後に、これからの経営について「清酒業界は淘汰の時代を迎えています。時代の流れとして、アルコールの大量消費する人口が減り、 ヘビーユーザーが減ることに危機感を抱いています。普通酒が減り特定名称酒が増え、トータル的には減っていくことが明らかなため、量より質、顔の見える商売をしないといけないと思っています。ラベルの中からお客様の顔が見え、お客様がラベルを通して蔵元を知ることが出来る、そんな蔵にしたいですね。」 (ラベルは社長自身にデザイン)「私の酒造りはロマンが100%、自分が好きな酒、自分がおししいと思える酒・味の濃い酒に負けない綺麗な酒・を造りたいとの思っています。 」杜氏、蔵人、水、米の仲間達と一緒にロマンを追求していく発展途上の日高見は、蔵元自身が納得出来る酒を追求し続けていきます。 ▲酒蔵に展示している酒造り絵 ▲製麹室 ▲平孝酒造自慢の釜

?叶V澤醸造店

明治6年創業、「荒城の月」で有名な土井晩翠がこよなくここの酒を愛し、よく 遊びに来て”館山の頂開く酒むしろ愛宕の松の薫いみじく”との句まで残し飲み 続けたと云われる新澤醸造店は、仙台から車で北へ50分程行った三本木町に あります。地元を愛し、ふるさとの酒としてこよなく愛されるよう昔ながらの手造り を守り、米と会話をしながら酒造りをしています。建物は昔ながらの歴史を感じる ひなびた酒蔵です。 現在、弱冠25才で史上最年少で難関の利酒名人に合格した若い後継者新澤巖夫氏が製造責任者として酒造りにあたっています。 彼は東京農大醸造学科卒業後、山形で修行、その後本格的に家業の酒造りを担当しています。

?樺?勇酒造店

日本酒の中で、吟醸酒や純米酒など(特定名称酒)の生産比率が54%(昨年実績)と全国平均の25.5%の2倍以上の特定名称酒生産比率を誇る宮城県の中でも夢幻蔵元は70%を誇る銘醸蔵です。昔から米どころ、酒どころとして全国的に有名な中新田町は、人口1万5千人余りの小さな町ながら全国的に有名な酒蔵が3蔵あり、特記すべきは、町内で飲まれている酒のほぼ100%を3つの蔵元の酒が占めていることです。今回は、3つの蔵元それぞれが個性を輝かせ、切磋琢磨し、経営努力して実現した町内シェア100%の秘密に迫ります。中新田シリーズ第2弾、ご存じ夢幻蔵元の?樺?勇酒造店です。 ?樺?勇酒造店の沿革  明治39年、23代目当主中嶋文治氏により創業。そもそも中新田の中嶋家は町内有数の旧家で、初祖は藤原鎌足の子孫と伝えられています。奥州探題で知られる「大崎氏」の家臣として代々武士として仕え、時代の変遷と共に帰農しながら「大肝入」として地域に貢献しました。蔵元初代文治氏は20代に呉服商を興し、その後酒造業を創業しました。その後、2代目である勇治氏は42歳で急逝し、時代は第2次世界大戦に突入し、酒造りは中断を余儀なくされました。終戦を経て平和の時を迎えましたが、3代目信一郎氏はまだ幼少のため、当主不在の当蔵は、企業整備の嵐に巻き込まれついに解体しました。その苦境の中で中嶋家の家督信一郎氏は、一家の家計を支えるため進学を断念し、4人の弟を育てるため菓子職人となり生計を立てましたが、心の中では酒蔵復活の夢を捨てきれず苦悩の毎日でした。昭和32年ついに酒蔵復活のチャンスを迎え、取り壊された酒蔵の建設に着手しました。蔵人や資金の手配など、苦労の甲斐あって仮製造免許を取得することが出来、本格的な再建が始まりました。しかしながら10年以上のブランクによるダメージは予想以上に大きく、得意先の酒販店では、店頭は他社銘柄で占められ、なかなか取り扱ってはもらえず苦悩の毎日でした。その窮地の中で当社を支えてくれたのは、まぎれもなく地域の皆様で、「おらが町の酒」として町民の方々に支持され助けられました。戦前は「桐正宗」、「秋の世」、「笑顔」、「鳴瀬川」の銘柄を販売、復活後は「鳴瀬川」ブランドに統一し、酒質は敢えて世の中の流行にながされず、独自の酒質を守り、あくまでも品質で勝負する経営方針を貫き通しました。昭和50年代、まだ吟醸ブームが訪れる前の日本酒離れがささやかれた洋酒全盛時代に、これからの日本酒のあるべき姿として模索した結果、水割りにしても、冷やしても美味しい酒の開発を目指しました。大変な努力の甲斐あって、ベストセラー夢幻の原型である鳴瀬川の吟醸原酒がついに誕生しました。その後画家であり登山家である岡部一彦先生が当地を訪れた際、鳴瀬川のお酒と巡り会い、再び夢のような酒に逢えますようにとの願いから「夢幻」と命名していただきました。銘柄「夢幻」は吟醸、純米酒以上の高級酒のみに使用し、25年の歳月を経て愛飲家の皆様に絶大な人気を得るまでになりました。 東北清酒鑑評会10年連続受賞。南部杜氏自醸酒鑑評会連続受賞。当蔵は、鑑評会用のためだけの仕込み酒ではありません。鑑評会には、全量市販酒目的で造った酒から選び出品しています。。 南部杜氏鑑評会35回連続優等賞 中島社長の主張する酒造りのとは?! 中島社長に取材して開口一番「豊かな大自然の恵みと伝統の技・・・・・・・・・奥羽山系の伏流水を使い・・・・・・・このパターンをあえてウチは省略してください!飲み手の皆様へお伝えしたいことは山ほどありますが 私は口下手なので誤解されてしまうことが多いんです。本来造り手が飲み手に伝える手段は、言葉や文章ではなく、酒そのものしかないと思っています。特にネットに関しても、売れれば何でもよいと云うことではなく、私の蔵の酒造りを知っていただけるキッカケとして捉えています。情報公開の時代を迎え、酒蔵の真の情報を正確に全国の消費者に伝えてもらえるチャンスを生かしたいと思っています。」と云う社長は、”宮城の酒蔵を全国に紹介する”との会の趣旨に賛同していただき、当サイトの立ち上げにも協力していただきました。先代の社長にも大変お世話になり、今から10年以上前、冬の仕込み時期に先代の社長とお会いした際 ”10人の飲み手の中で5人の方々に、ただ美味しいと云われるのではなく、これでなければいけないよと云わせる”酒造りをしなければいけないとの言葉が印象的でした。本題の大きな疑問、なぜ小さな県北の町中新田には、3つも蔵元があるのですか?との問いに「地元の人々は、地酒を知っています。他町の酒も飲んで比べています。そして酒を飲む機会も多く毎日の晩酌や、お祭りや町の寄り合いなど飲み会も多く、少しでも品質が落ちると町の噂になり、取り残される誠に厳しい地域です。当然品質競争が激しく、その結果としてタイプの違う個性豊かな3つの蔵元が存続し、町内シェア100%が実現されているのです。」中島社長は70歳で急逝した父の遺志を受け継ぎ、40歳で事業を継承して5年が過ぎました。温和な人柄で目立たないタイプですが、考え方は斬新で先取の気質にあふれ、県内でも期待されている逸材です。平成9年には、念願の全国組織「天上夢幻会」を立ち上げ、現在事務局長を務めています。通産省後援の地酒の新たな物流のビジネスモデルを考えるRC研究会にも、宮城の蔵元代表の1人として積極的に参加され活躍しています。 夢幻蔵元の特長 特定名称酒比率70%、生産石数約500石、普通酒、純米酒に「鳴瀬川」本醸造酒に「火伏せの虎舞」 「あゆの里」吟醸、純米酒に「天上夢幻」の商標を保有しています。  当蔵の生での出荷は1月中旬~ 本醸造しぼりたて生原酒  2月1日 新製品「千年大崎」純米酒3月下旬 夢幻原酒「生」   ▲内部の仕込みタンク ▲麹部屋の内部 ▲大型冷蔵庫の内部

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