?兜ス孝商店

 平孝酒造のある石巻市は人口約12万人、東洋一大きな漁港を持ち、南三陸金華山国定公園の玄関口に位置し、大河「北上川」の河口に開けている日本有数の港町です。江戸時代には,奥州六十二万石伊達政宗の所領となって,幕末まで仙台藩の江戸廻米を中心とした北上川舟運の交易の基地として、また漁港・造船場として栄えました。俳人松尾芭蕉も「奥の細道」でその繁栄ぶりを書き残しております。 現在では石ノ森章太郎氏ゆかりの地として石ノ森漫画館、伊達政宗の命を受けた慶長使節の支倉常長氏ら一行のローマ出航の地としてのサンファンバウディスタパークなど見どころいっぱいの石巻に、日高見の銘柄で全国の地酒ファン垂線の銘醸蔵、地元に愛され、地元の誇りとなっている「平孝酒造」があります。 平孝酒造の沿革  文久元年創業。(1861年)岩手県の「菊の司」酒造から分家し当地で酒造業を開始しました。石巻沿岸の金華山沖では暖流と寒流のぶつかる世界三大漁場のひとつとして四季折々に美味しい海の幸を楽しめる石巻は、江戸時代には伊達藩と南部藩の米の集積地として栄え遠く江戸や大阪に物資を運んでいました。その当時、造り酒屋を開くには藩の許可が必要で、一宿に一軒と定められ16軒もの造り酒屋があったと云われています。平孝酒造のある清水町は、その名の通り名水が湧き出る地として有名で、初代が酒造りに最適地とのことで当地に開業しました。平孝酒造では、普通酒の銘柄を「新関」、特定名称酒を「日高見」として販売しております。「新関」は、レギュラー酒として、主に地元で親しまれております。「日高見」は、全国レベルで通用する酒を目指そうと開発された銘柄で、酒名の「日高見」は、日本書記の中に「土地沃壌えて広し」と記されているように、その昔太陽の恵みを受ける国「日高見国」と称えられ、その中央を流れる川「日高見川」が後に北上川と呼ばれる様になり郷土と深い関り合いがある事に因んで地域性重視の観点から命名しました。 平井孝浩社長のロマン100%の酒造り 東北学院大学卒業後2年間、東京の大手問屋にてサラリーマン生活を経験した後、昭和63年家業の酒造業に大志を抱いて帰郷しました。当時は灘・伏見の普通酒が全盛で、条件競争に明け暮れる酒類業界の中で現実の厳しさに直面し、苦悩する毎日を過ごしました。問屋のセールスと同行して自社の酒を持って酒販店を営業する(置回り)毎日の中で、思ったように売れない苦悩の日が続きました。そんな中で酔うためだけの酒でなく、楽しめる、おいしい酒を造りたいとの思いが日増しに強くなってまいりました。そんな普通酒全盛の清酒業界の中から、一ノ蔵無鑑査や浦霞禅など本物志向の地酒が脚光を浴びる新たな時代を迎えました。当時を振り返って「酒造りのない夏から秋にかけて、杜氏と二人三脚でおいしい酒を求めて酒造りに取り組みました。時には東京まで杜氏を連れて行き、おいしい酒を見つけると、こんな酒は出来ないものか?と試行錯誤する日々を5~6年間は費やしました。そして新酒が出来ると置回りして販売するとの繰り返しが続きました。いくつかの銘柄を出しては消える繰り返しの中から、今の日高見の基礎が出来上がっていきました。」平成4年の級別廃止が追い風となり、河北新報で「日高見の国」が連載され脚光を浴びたのも後押しし、その過程の中で社長の思いに賛同する酒販店も現れ始め、それが現在の日高見会(平成4年発会、宮城県内で40店ほどが加盟)の前身となっています。その当時を振り返って「悩んでいたけれども、良い人たちに恵まれ支えられていたことを、強く感じています。」 蔵元として「一番大切な事は自分の蔵の酒質設計を描くことです。これからの時代、蔵元自体が造りの技術を作り上げなければならない状況を迎えました。一定の味を保つため絶えず試行錯誤する毎日の中で、酒造りの設計図を書けるまでに成長しなければとの思っていました。15年間のノウハウをまとめた資料をマニアル化することよって酒造りの設計図が描ける環境が出来上がり、今では設計図によって出来上げる酒の酒質を100%実現できます。」現場の酒造りについて「最初の原料処理で8割が決まります、そのため浸米から細心の注意を払って仕込みます。酒造りと貯蔵が同じくらい大切なため、絞った酒は100%冷蔵貯蔵します、私は、お客様の口に入るまでが酒造りと思いから、火入れのタイミングを私自身で決めています。」 酒蔵の組織を大リーグ体制に例えて蔵元(社長)はオーナーでありゼネラルマネージャー。杜氏・・・監督。蔵人・・・選手。酒販店・・・コーチ、スタッフ。 消費者・・・観客。 観客である消費者に楽しんで頂けるお酒を造るのが蔵元の仕事と思っています。 酒造りをオリンピックの体操の演技に例えて規定演技・・・3000円以上の酒。吟醸酒・大吟醸酒・純米吟醸酒最高の原料米(山田錦、雄町、八反など)を使い、最高の技で取り組んでいます。主に首都圏や仙台など大消費地で販売されているため、蔵のレベルが試されているものと思っています。自由演技・・・3000円以下の酒。本醸造・純米酒宮城の酵母を使い、米を使い、宮城ならではの酒造りをしています。、 宮城の酒蔵全体を宮城県選抜野球チームに例えて一ノ蔵さんや佐浦さんが3番、4番の中心バッターの重責をはたしている宮城選抜チームの中で平孝酒造はピッチャーであり、1番バッターのポジションを目指しています。そして、宮城選抜チームが、新潟や山形などの強力チームと真っ向から勝負したいと思っています。 最後に、これからの経営について「清酒業界は淘汰の時代を迎えています。時代の流れとして、アルコールの大量消費する人口が減り、 ヘビーユーザーが減ることに危機感を抱いています。普通酒が減り特定名称酒が増え、トータル的には減っていくことが明らかなため、量より質、顔の見える商売をしないといけないと思っています。ラベルの中からお客様の顔が見え、お客様がラベルを通して蔵元を知ることが出来る、そんな蔵にしたいですね。」 (ラベルは社長自身にデザイン)「私の酒造りはロマンが100%、自分が好きな酒、自分がおししいと思える酒・味の濃い酒に負けない綺麗な酒・を造りたいとの思っています。 」杜氏、蔵人、水、米の仲間達と一緒にロマンを追求していく発展途上の日高見は、蔵元自身が納得出来る酒を追求し続けていきます。 ▲酒蔵に展示している酒造り絵 ▲製麹室 ▲平孝酒造自慢の釜

?叶V澤醸造店

明治6年創業、「荒城の月」で有名な土井晩翠がこよなくここの酒を愛し、よく 遊びに来て”館山の頂開く酒むしろ愛宕の松の薫いみじく”との句まで残し飲み 続けたと云われる新澤醸造店は、仙台から車で北へ50分程行った三本木町に あります。地元を愛し、ふるさとの酒としてこよなく愛されるよう昔ながらの手造り を守り、米と会話をしながら酒造りをしています。建物は昔ながらの歴史を感じる ひなびた酒蔵です。 現在、弱冠25才で史上最年少で難関の利酒名人に合格した若い後継者新澤巖夫氏が製造責任者として酒造りにあたっています。 彼は東京農大醸造学科卒業後、山形で修行、その後本格的に家業の酒造りを担当しています。

?樺?勇酒造店

日本酒の中で、吟醸酒や純米酒など(特定名称酒)の生産比率が54%(昨年実績)と全国平均の25.5%の2倍以上の特定名称酒生産比率を誇る宮城県の中でも夢幻蔵元は70%を誇る銘醸蔵です。昔から米どころ、酒どころとして全国的に有名な中新田町は、人口1万5千人余りの小さな町ながら全国的に有名な酒蔵が3蔵あり、特記すべきは、町内で飲まれている酒のほぼ100%を3つの蔵元の酒が占めていることです。今回は、3つの蔵元それぞれが個性を輝かせ、切磋琢磨し、経営努力して実現した町内シェア100%の秘密に迫ります。中新田シリーズ第2弾、ご存じ夢幻蔵元の?樺?勇酒造店です。 ?樺?勇酒造店の沿革  明治39年、23代目当主中嶋文治氏により創業。そもそも中新田の中嶋家は町内有数の旧家で、初祖は藤原鎌足の子孫と伝えられています。奥州探題で知られる「大崎氏」の家臣として代々武士として仕え、時代の変遷と共に帰農しながら「大肝入」として地域に貢献しました。蔵元初代文治氏は20代に呉服商を興し、その後酒造業を創業しました。その後、2代目である勇治氏は42歳で急逝し、時代は第2次世界大戦に突入し、酒造りは中断を余儀なくされました。終戦を経て平和の時を迎えましたが、3代目信一郎氏はまだ幼少のため、当主不在の当蔵は、企業整備の嵐に巻き込まれついに解体しました。その苦境の中で中嶋家の家督信一郎氏は、一家の家計を支えるため進学を断念し、4人の弟を育てるため菓子職人となり生計を立てましたが、心の中では酒蔵復活の夢を捨てきれず苦悩の毎日でした。昭和32年ついに酒蔵復活のチャンスを迎え、取り壊された酒蔵の建設に着手しました。蔵人や資金の手配など、苦労の甲斐あって仮製造免許を取得することが出来、本格的な再建が始まりました。しかしながら10年以上のブランクによるダメージは予想以上に大きく、得意先の酒販店では、店頭は他社銘柄で占められ、なかなか取り扱ってはもらえず苦悩の毎日でした。その窮地の中で当社を支えてくれたのは、まぎれもなく地域の皆様で、「おらが町の酒」として町民の方々に支持され助けられました。戦前は「桐正宗」、「秋の世」、「笑顔」、「鳴瀬川」の銘柄を販売、復活後は「鳴瀬川」ブランドに統一し、酒質は敢えて世の中の流行にながされず、独自の酒質を守り、あくまでも品質で勝負する経営方針を貫き通しました。昭和50年代、まだ吟醸ブームが訪れる前の日本酒離れがささやかれた洋酒全盛時代に、これからの日本酒のあるべき姿として模索した結果、水割りにしても、冷やしても美味しい酒の開発を目指しました。大変な努力の甲斐あって、ベストセラー夢幻の原型である鳴瀬川の吟醸原酒がついに誕生しました。その後画家であり登山家である岡部一彦先生が当地を訪れた際、鳴瀬川のお酒と巡り会い、再び夢のような酒に逢えますようにとの願いから「夢幻」と命名していただきました。銘柄「夢幻」は吟醸、純米酒以上の高級酒のみに使用し、25年の歳月を経て愛飲家の皆様に絶大な人気を得るまでになりました。 東北清酒鑑評会10年連続受賞。南部杜氏自醸酒鑑評会連続受賞。当蔵は、鑑評会用のためだけの仕込み酒ではありません。鑑評会には、全量市販酒目的で造った酒から選び出品しています。。 南部杜氏鑑評会35回連続優等賞 中島社長の主張する酒造りのとは?! 中島社長に取材して開口一番「豊かな大自然の恵みと伝統の技・・・・・・・・・奥羽山系の伏流水を使い・・・・・・・このパターンをあえてウチは省略してください!飲み手の皆様へお伝えしたいことは山ほどありますが 私は口下手なので誤解されてしまうことが多いんです。本来造り手が飲み手に伝える手段は、言葉や文章ではなく、酒そのものしかないと思っています。特にネットに関しても、売れれば何でもよいと云うことではなく、私の蔵の酒造りを知っていただけるキッカケとして捉えています。情報公開の時代を迎え、酒蔵の真の情報を正確に全国の消費者に伝えてもらえるチャンスを生かしたいと思っています。」と云う社長は、”宮城の酒蔵を全国に紹介する”との会の趣旨に賛同していただき、当サイトの立ち上げにも協力していただきました。先代の社長にも大変お世話になり、今から10年以上前、冬の仕込み時期に先代の社長とお会いした際 ”10人の飲み手の中で5人の方々に、ただ美味しいと云われるのではなく、これでなければいけないよと云わせる”酒造りをしなければいけないとの言葉が印象的でした。本題の大きな疑問、なぜ小さな県北の町中新田には、3つも蔵元があるのですか?との問いに「地元の人々は、地酒を知っています。他町の酒も飲んで比べています。そして酒を飲む機会も多く毎日の晩酌や、お祭りや町の寄り合いなど飲み会も多く、少しでも品質が落ちると町の噂になり、取り残される誠に厳しい地域です。当然品質競争が激しく、その結果としてタイプの違う個性豊かな3つの蔵元が存続し、町内シェア100%が実現されているのです。」中島社長は70歳で急逝した父の遺志を受け継ぎ、40歳で事業を継承して5年が過ぎました。温和な人柄で目立たないタイプですが、考え方は斬新で先取の気質にあふれ、県内でも期待されている逸材です。平成9年には、念願の全国組織「天上夢幻会」を立ち上げ、現在事務局長を務めています。通産省後援の地酒の新たな物流のビジネスモデルを考えるRC研究会にも、宮城の蔵元代表の1人として積極的に参加され活躍しています。 夢幻蔵元の特長 特定名称酒比率70%、生産石数約500石、普通酒、純米酒に「鳴瀬川」本醸造酒に「火伏せの虎舞」 「あゆの里」吟醸、純米酒に「天上夢幻」の商標を保有しています。  当蔵の生での出荷は1月中旬~ 本醸造しぼりたて生原酒  2月1日 新製品「千年大崎」純米酒3月下旬 夢幻原酒「生」   ▲内部の仕込みタンク ▲麹部屋の内部 ▲大型冷蔵庫の内部