中新田町は、仙台の北西部に位置し、ササニシキの本場大崎平野の一角に位置する人口約1万5千人ほどの田園都市です。奥羽山脈からの吹き下ろす冷たい北西風によって冬は雪が多く酒造りには最適の地です。中新田の町名の由来は、古く南北朝時代に斯波家兼が中新田に城を築き、当時「にった」と呼ばれていた地を、仇敵新田義貞と同音であるところから「にいだ」に改めたと云われています。現在は米作が主産業ですが、キノコ栽培や鮎の養殖などの地場産業も盛んです。

蔵推奨銘柄

寛政元年創業の蔵は、明治大正と酒造業の他に多くの不動産を所有し呉服の太物販売など幅広く多角経営をしていました。今の社屋は呉服商をしていた当時そのままで、歴史と風情を感じさせます。

?鞄c中酒造店の沿革

太物(呉服)・古着の販売をしていた初代田中林兵衛氏は、事業欲が旺盛で、新たに副業として寛政元年(1789年)に酒製造業を始めました。当時、田中^家は二つに分家して、呉服屋を中心に貸金業、質屋、地主、醤油醸造業、酒造業などを兼業していました。現在も地元では、田中酒造より田林の名で親しまれています。9代目現社長の祖父が、昭和10年代の物資統制令を境に呉服商を廃業し酒造業を中心に事業展開をしました。
伊達家の藩政時代には、代官など4つ会所が置かれた加美郡政治の中心地でもある中新田で、「東華正宗」の銘柄で地元を中心に販売していました。その当時の城主只野伊賀の奥方只野真葛は、南総里見八犬伝の滝沢馬琴らと交流があり、女流詩人としても知られておりました。真葛は、庭で舞遊ぶ鶴をこよなく愛し、鶴の歌を数多く詠んだと云われています。当時「名酒東華正宗」を献上した際、あまりの美味しさにいたく感激した城主が「真鶴を酒名とせよ」と申され、以来「真鶴」の銘柄で販売しています。
創業以来、伝統の麹蓋での製麹法、こしきでの蒸し米など昔ながらの手造りにこだわった酒造りに専念しており、そのため真鶴全商品に手造りラベルの表示をしております。近年軽くて透明感のある酒がもてはやされている中、「しっかりした味わいで、透明感のある酒」この相反した難題に対する答えを求めつつ旨口の酒造りの伝統をかたくなに守り続けています。今人気の宮城酵母などの香りの強い酵母はあえて使わず、昔ながらの手間のかかる山廃造りを守り、ぬくもりを大切にした木の暖気樽を現在を使用しています。

東北清酒鑑評会受賞。
南部杜氏自醸酒鑑評会受賞。

故田中社長のインタビュー

九代目田中宏明社長は現在58歳、東北大卒業の逸材で宮城の蔵元の中でも、利き酒の実力は随一、魅力溢れる人柄です。
社長の酒造りとは?との質問に「基本どうりに、手抜きをしないで、昔からの酒造りを守って造ることです。酒造りは、交響楽団と同じです。指揮者が、コンサートマスターを中心に各パートの能力を引き出し一つの楽曲を仕上げる。そして演奏会の場で聴衆へ作品を披露し評価をいただく、指揮者が変われば、同じ楽曲でも変わります。”私の作品はどうですか?感動したでしょう”との挑戦的な姿勢が酒造りにも大事なんです。
コンダクターが私で、コンサートマスターが杜氏、蔵人が各パートで、それぞれの能力を存分に発揮し入魂の一品を仕上げる。今まで、長く酒造りに携わっての経験で”昔どうりにやればいい”との結論で、昔から方法で乳酸菌を自然に増殖させての山廃仕込み、麹は全て麹蓋を使っています。通常の速醸系酒母より時間と手間がかかりますが、間違いなくおいしい酒が出来上がります。」「全国的に有名なバッハホールがある当地と云うことで先程は酒造りを交響楽団に例えましたが、酒造家は、料理の板前やシェフと同じで、自分の造った酒を自信を持って飲む手に味わってもらい、どうだ旨いだろうと云う感覚が必要なんです。」
「私は、幅があり軽くて透明感のある酒が好きなんです、でも板硝子のような薄っぺらなものではなく、ステンドガラスのような厚みのある重厚なもので、今どきの香り強い酒ではなく、きちんと味があって透明な酒が好きなんです。そんな酒を目指して造っています。」>
そして地酒とは、その土地の米や米生産者と一緒になって造り上げる、それが本当の地酒であるとの信念から宮城を代表する酒造好適米「蔵の華」の開発に尽力し、こよなく酒を愛している社長です。

田中酒造店の特長
社長と2時間余り取材した後、製造責任者の中川氏に蔵の中を案内して頂きました。当蔵は宮城で唯一山形県酒田市から来てる庄内杜氏の長谷川さんを中心に、総勢9名、全員30代から50代までの熟練した蔵人が酒造りにあたりっています。こちらの蔵の造りで特徴的なのは、昔ながらの造りにこだわっていることです。麹は通常は吟醸造りにのみ使う麹蓋を全量に使い、酒母の温度調整をするために、今では珍しい木製の暖気樽を使っています。

▲洗浄中の木の暖気樽

▲麹蓋が並べられた麹室の内部。

▲吟醸酒用に搾る槽

x