墨廼江酒造

宮城の蔵元の中でも全国的に有名な墨廼江と日高見の蔵がある石巻市は宮城県の北東部、仙台市より東に50km、車で1時間の旧北上川が太平洋に注ぐ河口に位置し、市内中心部にある日和山公園からは、西に松島、東に牡鹿半島・金華山を望める風光明媚な景色が楽しめる町です。古くから、江戸廻米を中心とした海運、北上川舟運の交易基地として賑わい、また世界3大漁場の1つである金華山沖の漁場を有し、日本有数の港町・水産都市として食通にはこたえられない新鮮な魚介類や、ささかまに代表される水産加工品など海の幸に恵まれています。食通、酒通の町として、レベルの高い地酒が育つ土壌の中で墨廼江酒造は育ち、銘醸蔵として大輪の花が咲こうとしています。

蔵推奨銘柄

墨廼江酒造の沿革

弘化2年創業。(1845年)
澤口家の初代・澤口清治郎は、仙台・河原町で「泉屋」と云う屋号で山形から紅や呉服反物などを扱う商社(問屋)に生まれました。親族経営だった「泉屋」では、商人向きではなく、遊び人だった清治郎を息子・安治と共に、当時米の積出港として栄えていた石巻に別家に出しました。その後、本家「泉屋」より分けてもらった財産を元手に海産物問屋と穀物問屋を始めました。若くして他界した父に代わり事業を継いだ二代目・安治は商才に優れ、どんどん事業を拡大していきました。海産物問屋としては、三陸漁業権の七割を確保した程でした。本場静岡焼津より職人を呼び寄せて、石巻では初めて鰹節を製造し、ラッコ船にまで手を広げていきました。当時、蔵のある地域には水の神様を祭る墨廼江神社があり、その地名墨廼江を、そのまま酒名にして酒造りを行っていた井上家という商家がありました。初代・清治郎の代より井上家に酒米を納入していた縁もあって、造り酒屋を譲り受けて創業したのが1845年弘化二年のことでした。当時は酒造りの方はあくまでも副業的な存在で事業の柱は海産物問屋、穀物問屋でした。その後三代目・清治郎の時代になり、昭和3年約2600人の犠牲者を出した大津波が三陸海岸(三陸大津波)を襲い、本業の問屋業が壊滅的な被害を受け、その後酒造りが本業になったと言われております。その後四代目・安五郎、五代目・安右衛門と酒造り一筋に専念し、現社長・康 紀が平成11年10月に六代目に就任し現在に至っております。

  初代本家泉屋の時に、一世を風靡した名力士谷風の父親が「泉屋」で番頭をしていたことから、谷風の商標を取得し、現在夏冬の限定品純米大吟醸に谷風の名が使われています。

澤口康紀社長の誠実な酒造り!

以前、卸店主催の宮城の地酒内覧会の会場で、内覧会終了間際、ただ一人、20以上ある各蔵のコーナーで出品酒の全てをきき酒をしている蔵の社長がいました、その方が今回紹介する墨廼江酒造6代目の澤口社長です。 その時のことをお聞きすると「私は蔵元として、きき酒の会場では、全ての酒をきくのが礼儀と思っています。ここの酒はきくが、あの蔵の酒はきかないとか、吟醸や純米はきくが本醸造はきかないお客様方がいらっしゃいます。私ども蔵元は、全てのお酒に対し真剣に精魂込めて造っているので、出品した全てのお酒をきいてほしいんです。そして全てのお酒を利くことにより、その蔵の造りについての思いが必ずや伝わってきます。」 社会人になるまで酒蔵を継ぐことなど考えなかった澤口社長は、武蔵大経済学部を卒業後、東京のタカキュー洋服店に勤め、気楽なサラリーマン生活をしていました。ところがタカキュー入社して2年後、父親の前社長が体調をくずしてしまい、親のたっての希望から、家業の墨廼江酒造に入社することになりました。当時の墨廼江酒造は、酒造業を経営する傍ら、夏場の閑散期にはビールや飲料を扱う問屋業も営む会社でした。当時は灘・伏見の清酒全盛の時代で、質より量を求める清酒業界の中で、浦霞の禅や一ノ蔵無鑑査が脚光を浴びつつある時代の中、酒造りに関心もなく育った澤口社長は、自らの酒造りの勉強のため、入社してすぐ滝野川にあった国税局醸造試験所(現在は広島にある国税局醸造試験所)に研修に行きました。その時、今の墨廼江酒造の基本となる数多くの出会いがありました。そこでは全国から集まる、蔵内最高の鑑評会用の出品酒を思う存分飲むことができ、初めて出品酒の持つ本物の酒のすごさを身をもって経験しました。澤口社長は当時を振り返って「醸造試験所での半年間は素晴らしい経験をすることが出来ました。全国から集まる鑑評会用の酒を連日連夜試飲することができ、自分の蔵の酒とのかけはなれた素晴らしい酒に出会い、ここでの半年間で酒造業を継ぐ心構えと酒造りへの情熱が芽生えました。」「当時の広島の醸造試験所は、酒造業の後継者は無料で研修を受け入れていただいた為、研修生は、ほとんど酒蔵の跡取りでした。その当時の仲間とは今でも親しくお付き合いさせていただいています。」 その後、会社に戻った澤口社長は、卸部門を切り捨て、桶売りを止め、大きなタンクを廃棄し、量より質の転換を目指して大リストラを断行しました。そして今までの努力が実り、地元ではもちろん、東京や仙台でも墨廼江ファンが数多く、宮城を代表する酒蔵となりました。「酒造りは、酒が好きでなければいけません。道楽と仕事が混在しているのが酒造りです。年ごとに、米の出来具合、気候や気温、水の温度など、酒の味わいに直接影響する要素が違うんです、酒造りは毎年が1年生ですよ。酒を造る時期は気を抜けません。」と語る社長は、「お客様と品質を大切に」を信条に、寒仕込みのシーズンには、社長自ら酒造りにあたります。「酒を造るには酵母と麹菌です。私たちは、この微生物たちが活動しやすい環境を整えてやることです。基本を忠実に守り、手間を惜しみません。その造りの中でも、最も蒸しを重視しています。長年の経験から、蒸しがうまくいけば、必ずおいしい酒が出来上がります。」 墨廼江酒造の目指す「綺麗」「品格」「飲み飽きない酒」を消費者の方々へ提供していきたいと頑張っています。

▲米洗いの作業でザル取りしています。

▲一番大切な蒸しの作業。

▲酒母室で温度経過を計っています。

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